父親は西区で「えびす湯」の名称で、風呂屋(銭湯)を経営、また、風呂屋専門の建築業元請として、営業いたしておりました。配水管の工事、建築、籐製品の製作などにも携わりました。
思えば当時憶えた技術が今日の祭壇作りに生かされていることは間違いありません。昭和30年代〜40年代にかけて風呂屋としての経営が全国的に思わしくなく、衰退の一途をたどりました。世はまさに大規模な団地の建設が日本住宅公団により千葉県稲毛団地に出現入居開始とあいまってキッチン・バス・トイレ付として、世の羨望を集め全国で団地建設のブームの幕開けも風呂屋としての存在がなくなった一因であると思います。26歳の時に妻(敏子)を娶り、長女、長男、(廣次現専務)が生まれました。結婚当初は生活が苦しくて、大きな声では言えませんが同年配の方なら記憶にあると思いますが、「白タク」といって(免許なしのタクシー)で街を流したこともありましたし、今思えば冷や汗ものです。