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父由次郎さんと母千代さん

昭和59年11月に父を、そして昭和62年8月に母が死去いたしました。6男1女という子だくさんを育て、特に、私は幼少の頃より病弱のため、進級が遅れ、勉学よりも”イタズラ”ばかりの腕白少年で両親に苦労もかけたことと思っています。「教室で勉強している時間より廊下でバケツを持って立っていた事の方が多かったから」…ですから今でも会社に出社するや、父母の霊と会社として取り扱わさせていただいた諸霊に手を合わせることが一日の始まりです。

葬祭業という仕事は、昼も夜もなく大変な業務でありますが、また反面仕事先でお施主さんより、ねぎらいの言葉が励みとなりました。私の初仕事である天神下の「伊藤さん」いまでも当時のことがなつかしく「初心忘れるべからず」の心境です。




東海葬儀に在職中に出入りしている大病院からもう一社の老舗業 者が加わる話が持ち上がり、お互い”切磋琢磨”することにより 、自分達にも好影響があるものと周囲の反対を押し切ったものでした。

結局は営業方針の相違により、平成4年に長男廣次と、意を決して東海典礼を興しました。その年は東京の新都庁に一年で800 万人の見学者が訪れ、観光名所として定着した頃であり、マグロ 一匹800万円と高値をよんだ話題もあり、本トロ一握り1万円とか …庶民にとってなんだか住みにくい世の中でした。

会社として、 従業員は私を含めて6人、7人の「さむらい」どころか一人足らず、 一生懸命に取り組んだものでした。

昭和56年ごろ山城温泉へ母、父を連れて家族旅行のようす