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小学5年生 夏まつりの太鼓をたたく
父方祖母(中央)と
小学校2年生のとき、父親に連れられて町内の盆踊りに。「九州出身というイレズミの男の人が太鼓をたたいていた。息子は大変興味をもってじっと見ているうちに、その男の人が「”坊おもしろいか。おしえてやろう”」夢中になって覚えた廣次くん。中学、高校の頃には、あちら、こちらから声がかかり、ハッピを着て自転車で飛び廻った。
「今思えば、そのことが廣次の人生の転機に。人前に出ても、ものおじしなくなった」と目を細める父親。 「僕、お父さんの仕事手伝うよ。中学だけでいい」
との廣次専務。友達がみんな高校進学。その気になったが担任の教師から”今からではどこも受からん”と言われた。「よし、分かったそれなら」と父親は息子に一年間、家庭教師を付けた。





昭和57年 生徒会長としてあいさつする

昭和55年、享栄高校入学。一年生後期から三年前期までずっと生徒会長を務めたのである。

友人が停学になると、職員室に飛んで行って“それでは教育の放棄じゃないですか”と先生に反論する。人望と能力ーそういう少年に育っていった。

高校2年生のとき友人と


(現在は母校享栄高校同窓会副会長や、PTAの役員などの役職についている。) 高校時代、父親のいた加藤葬儀社に下宿。おばあちゃんから陰に陽に教えを受けたことも大きい。


昭和58年 高砂殿勤務時代

58年3月卒業。

卒業後は葬儀の仕事につきたいという考えがあり、他で修行したいと、父に申し出た。父親の指示で高砂殿、中京葬儀、などで他人のカマの飯を食ってきた。
平成元年、父とおじと廣次専務、東海葬儀を設立。当初”植木葬儀社”とするはずだったが


「”植木”と個人名で商売する時代じゃない。もっと広い目を持たなければ」
と主張した廣次専務。
曲折の後平成四年、父と息子で現在の「東海典礼」を創立した。二代目であり創業者であるのだ。

昭和63年頃
司会をするようす


平成3年頃のようす

”会館をつくらない”事が顧客への還元。
はじめのコストの低減になる。その代わりが父社長が若い頃から築き上げてきた寺院との信頼関係。業績はぐんぐん上がる。こうした東海典礼のやり方は”異端者”扱いされ、組合に入れてもらえなかった。それなら、と愛知中央葬祭業協同組合という別組織を作った。志を同じとするものが集まり、保博社長が理事長に推された。東海典礼代表取締役・廣次専務。

「まず若いスタッフをそろえた。顧客がこんな若い人で大丈夫かなと不安がられる中で、きちんとした仕事をする。”若いのに気配りも十分。よくやってくれた”といわれるのがうれしい」経営者冥利といおうか。

「名古屋市内に同業が約80社。平成10年11月は五十件と件数ではトップ。あの”しにせ”を抜いた。」


平成4年 現場で葬儀の準備をするようす