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前号に書かせていただいたように、私は病院のベッドの上で実生活では体験できない数々の勉強をしました。一番の収穫はなんといっても病を持つ人の思いを今後はただ想像だけではなく、共感的立場に立って考えることができるということです。私たちは葬儀を通してご遺族のお手伝いをさせていただきますが、大切な方を亡くされた悲しみや痛みというものは、重い病を得た苦しみに通じるところがあるのではないでしょうか。そう感じるのは、高熱に浮かされ息苦しさに耐えていたとき、慰めの言葉はかえってつらかったことから蘇ってきた記憶があるからです。

それはこの仕事を始めて間もない頃のことで、小学校の二年生という小さなお子さんのご葬儀でした。ご両親は、悲しみに肩を落としながらも、ご弔問の方々を前にして泣くことはありませんでした。その朝の疲れきったお二人のご様子を知っている私は、涙も涸れてしまわれたのだなと胸が痛くなりました。

御焼香も終わりに近づいた頃、二十七、八歳に見えるひとりの男性が焼香台に立ちました。あどけなくほほ笑むご遺影にじっと見入りながら、ゆっくりと時間をかけて丁寧に御焼香をするさまは、故人となった小さいお子さんとの、通り一遍でないかかわりを窺わせるものでした。

その方はご両親の前に進み、頭をたれ、ひとこと「残念です」とおっしゃいました。私は驚きました。涙涸れ果てたと思われたご両親が、そのひとことに堰を切ったようにはらはらと涙をこぼされたのです。しかしそのお顔にはその方をいたわるようなほほ笑みが浮かんでいました。

私は亡くなったお子さんの主治医の先生なのだろうと察し、さぞかし懸命の治療をされたのだろう、その結果としての言葉なのだろうと思いました。

それは実は学校の担任の先生だったことを知ったのは、一周忌の席でのことでした。その先生も出席なさっていて、お話をする機会があったのです。なんでもクラスで逆上がりのできない子供たちを休み時間や放課後に熱心に指導をされ、三学期には全員ができるようになった。一番最後までできなかったのが、亡くなったお子さんなのですが、もうやめるとは一言も言わず頑張った。とうとうできるようになった時にはクラス全員が拍手をおくったそうです。

それで納得がいきました。涙涸れ果てたご両親が、先生の「残念です」のひとことになぜあのような表情をされたのか。それは「共感」だったと思うのです。お悔やみや慰めの言葉でなく子供を亡くされたご両親と同じ想いであるという共感があの言葉にあったのでしょう。

慰めよりも共感こそ、人を癒し力づける場合がある。自分の病いの体験を通して、遠い日のできごとがいまようやく私には理解できたのでした。