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私はいま、病院のベッドの上です。いろんなことが重なって体調を崩し、ちょっとした病気も見つかって、どうやら春一番が吹くまではここにご厄介になりそうです。外はまだ厳しい寒さのようで、ものは考えようといいますか、そういう時期を病院でぬくぬくと過ごして、春の陽気をからだいっぱいに受けながら退院する自分を思い描くのは、何かこころ華やぐ気分でもあります。

白い天井を見つめていると、いろいろなことを考えます。ある高名な先生が、「医者と看護師は死なない程度に病気をしたほうがいい」とおっしゃったことも思い出しました。この話を聞いたときは、随分と厳しいお言葉だな、と感じました。おそらく、患者さんの痛みや苦しみを理解して、より良い治療や看護をするために、そうした経験をした方がいいということだと思うのですが、病気をせずとも相手の立場に想像をはたらかせればわかるのではないかなと、そのときは考えていたのです。

ところが、なんでも経験はしてみるものです。三十五歳のいままで、病気らしい病気に見舞われることなく過ごしてきただけに、病を得て実に多くのことに気づかされました。実感とはやはり想像の比ではありませんでした。そのひとつは、病とは身体だけ病むのではないということです。これは病気の目鼻もついてきたからこそこんなことも言えるのですが、病人というものは、身体に受けたダメ−ジが心にも及ぶことを知りました。

一日中飛び回ってた私が、身体の自由が聞かず熱やら息苦しさやらで、集中してものを考えることもできない。すると仕事は、家はと心配事ばかりぐるぐると頭の中を駆け回るのです。僭越な話ですが、私には、私がいなくて会社が回っていくのかという思いがありました。ですからこのような状況がどうにももどかしく、自分のスタッフにもついつい強い調子でものを言ったり、精一杯やってくれたことに感謝を払うことさえ忘れていたのではないでしょうか。

もう一つ、病人というのはここまで不安で淋しいものかという想い。これは身体の痛みにも等しいものです。しかし不安で淋しいといっても、病人ですから人と話をするのが辛いときもあります。誰もいてほしくない時すらあるのです。

ところが看護師さんは別なんですね。不安で高ぶる気持ち、思うようにならなくて沈む気持ちが、看護師さんが部屋へ入ってきて、ニコッと笑って言葉をかけてくれると、すーっと平穏になる。以前なにかの本で「モルヒネ猫ちゃん」という話を読みました。がんの痛みが強くて始終そのことを訴える患者さんが、自分の猫を抱いてなでている間は一切痛みをもらさないという話です。看護師さんと猫ちゃんを一緒にするつもりは毛頭ありませんが、この人は確かな技術と知識を持ったプロフェッショナルで、私の病気や状態を理解してくれている。その安心と信頼を笑顔の中に私は見いだすのです。予期せぬ入院生活でしたが、多くの気づきがありました。まだまだ病院のベッドの上で勉強できることがありそうです。こどもに会いたい、仕事がしたいとはやる心に私はそう言い聞かせています。